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あの撫気

追い詰められたエイリアンたちは自分の体を使って反撃する。
彼らが恐怖に反応して現す表情や声や体臭や動作がわれわれに生理的嫌悪感を催させる。
彼らが全力ではむかってきているのだから、こちらも今もっている最高のものでお返しすることになるのだろう。
それはこちらの問題なのだから、相手の能力や場の状況を考える必要はない。

それは自分のわがままから生じている。
自分が気に入るか気に入らないか、という自己中心性がなければその武器は始動しない。
絶え間なく付きまとう不快感にも増して、直接的な被害もバカにならない。
それは数倍になって返されるだろう、それは無責任な挑発に対する返答だ、彼らの自業自得なのだ。

武器はわれわれを動かす。
われわれは武器にあやつられているといってもいいのだろう。

われわれが自分達の手でその武器を操作するのではなく、それがわれわれの手を導いていく。
われわれがそれを握っているのではなく、それがわれわれをつかんでいる。

それは何ものにも縛られず自立して動作する。
だからその武器を使用するものは自分を被害者と同等のものと位置づけるだろう。

あの屈辱を思い出せ、これは報復だと扇動するものは誰か?
基礎的施設を全力で潰滅する必要があるだろうという談話が発表される。

それは街の中心で学校から帰る途中の3人の少女たちの体をバラバラに引きちぎる。
校門をでたとたんの少年を一瞬の光でやけこげた影にする。

われわれが無意識のうちに求めているのは、その行為によって湧いてくる同情心だ。
一度作動してしまったわれわれの武器を鎮められるのはそれだけにみえる。

われわれは最初に持った自分勝手な衝動にこだわり、相手の弁護を許さないまま、固着したポジションを維持する。
それがまちがっているとわかったあとでも自分の判断を放棄することはない。

それは、はるか限界以上の遠いところまでわれわれを駆り立てていく。
そして、当然すべきことをしない前に中断する。

いつか見た光景が何度も繰り返されている。
それは日常のうち何時どこに現れても不思議ではない現象だ。

なんぢらのうちになんぢらのしらぬもの一人たてり。
すべてのものの罪を一手に引き受けるものが現れる。


引用;Seneca's Essays Volume I ,ON ANGER, Translated by John W. Basore,1928,The Loeb Classical Library. London.
http://www.stoics.com/seneca_essays_book_1.html#ANGER1

あの唖意


 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。



地上はるか上空に浮かぶ心が呼び寄せるものの気配はときどき乱れる。部屋全体の空間がねじれきしんでゆれる。先夜から発熱が続き頭がはっきりしない。古くさく荒れた家のかびの臭いがどこかから流れてくる。熱はあの逢瀬のあと、この部屋にもどったときに始まった。

あの若い男は言った。
 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」

わたしは、人によって態度が自然に変わってしまうことがないとよく言われる。裏表がない、気が置けない人だから、とても楽につきあえるとよく言われる。面倒見がいい、姉御肌だ。困ってる人、逆境に落ちた人を気遣って真剣に声をかけてくれる人。権威に対して真正面から言葉を返せる人。自分にウソをつかない人。それは自分がこれ以上下がない最低の地面の上をどろだらけになって手のひらと膝を使って這いずりまわり、もがいていた時期があったからだ。

わたしはどこにいるのだろう。もう一度会いたい。
彼がわたしの名前を知らないというのは本名があることを知っているからかもしれない。本名を名乗っても誰も知らないが、彼にはその世界でのわたしが通じるのかもしれない。あの世界のわたしにもう一度会いたい。会えるだろうか。

部屋が再び大きくゆれ、わたしの心がそれと共振する。灯が消える。
おどろいて笑い声がでる。
手をたたくとがらんとした部屋に気味悪く反響する。

暗い中を手探りで進んでいくと、熱のためか汗が異常にふきでて床にぽたぽたと落ちる音がする。
リビングのソファの前にうすぼんやりと人の影がみえる。うつぶせで長く体をのばした女性が床に倒れている。

近づいて抱き起こそうとしたが、別の世界のものだからなのか、見えているのに感触がない。
それはわたしであり、わたしがずっと嫉妬していた女。

わたしは自由になったのだろうか。


引用;渋谷栄一,源氏物語の世界,夕顔
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text04.html#in44
角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)
http://www.genji.co.jp/yosano/yy04.html

あの側転

夜が明けないうちに自転車で24時間営業のスーパーから帰る途中、イヌエケンゾウは薄暗い視野の先に黒い輪郭の生垣に両側からはさまれた細い道の上をふらふらと歩いている男の影を知覚した。男の左側を抜けようと進んだとき男が立ちどまり、手に持っているリード縄をひっぱる。舗装が破れた道の表面に近い低さから角度を持って黄色い大型犬の長い鼻がこちらを差し、じゃまをされ何か問いたげな調査中の人類学者の余裕と共に無垢な光をたたえた眼を持つ顔が生垣の間から漏れる光に浮かび上がる。その脇をより左側へすり抜けようとしたとき、その鼻の先は次の獲物にすでに向かっている。無数の羽毛が大気を膨張させんが勢いで当たり一面に散乱しているなか、血をしたたらせぐったりとした鳥をくわえて走る夢を追っている水平に伸びる背中をイヌエケンゾウは自転車の上から見送る。

イヌサフラン・イヌタデ・イヌホウズキ・イヌコウジュ・イヌビユ・イヌザンショウ

価値のある植物とよく似ていながら非なるものに接頭辞としてイヌをつける。
人の機嫌をとるようにこびへつらって近づいてきたものが期待していたものと似て非なるものであったときの失望感がそう名づけさせているのか。もちろんイヌに落ち度はない。

ではイヌと言われブーツを投げつけられたあの男は無実か?幼児的にニュートラルであるために「楽しかったよ」と臆面もなく言っているあの男は言葉どおりにイノセントなのか、とイヌエケンゾウは考えた。

明暗雙雙、底の時節(のあることを知るべし)。

明から暗に水をくぐって滑り渡り、その一部分を垣間見たところであの小説は中断している。しかし、人のことは言えない。住んで人間(じんかん)で出会った訴訟の答えを遠い地で知るような手配をしたのはまずかったな。あの作家は遠い地から帰ってきてその身にまとわりつく暗を自分の体全体でひきうけた。それとは似て非なる行為だ。明からでるつもりがないことがバレバレだ。そんなことなら開き直って、道情(Dao Qing)つまり路上ライブのハンストでもやって道を説けばよかったのかもしれない。もちろん冗談だけど。


引用;夏目漱石『明暗』解説,大江健三郎,岩波書店,1990.4.16.

あの素湾

「健康のために歩いているのか」
「歩くのがいちばんいいらしい」

彼は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。笑談(じょうだん)じゃない。ほんとうに重要なものは隠れているものだ。
精神界も同じだ。いつ何時どんな変に会わないとも限らない。
それも自分が知らずにいるだけで、いま現にどんな変がこの肉体のうちに起こりつつあるかも知れない。世界も全く同じ事だ。

「ロシアではツアーリが倒れた」
「なべてこの世のものは無常なり Praeterit figura hujus mundi」
「彼らは傷ついた子どものまま自ら命を絶った」
「やはり人間は境遇次第だね。世の趨勢にはさからえない」

故意だか偶然だか、彼の持って行こうとする方向へはなかなか持って行かれない彼の友人は、いつまでも彼の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。
彼は思わず笑い出してしまった。

「余裕がそう云わせているのだ。ゴミためで生きるゴミなら、排泄されたメタンガスが溜まって大爆発になる。ここではお互いに軽蔑しあって、それなりにバランスがとれたガス抜き装置の中でチープな快感を刹那に所有し騒いでいる」
「自由のために戦ったことがないのではどうしようもない」
「それではいつまでたっても自分と親しい同じ層を標的にすることになる」

馬鹿になっても構わないで進んでいけばいいのだ。
自由のために戦えばいいだけだ。

引用;黒い皮膚・白い仮面,フランツ・ファノン,海老坂武・加藤晴久 訳,みすず書房,1998.9.22.
「芸術言語論」への覚書,吉本隆明,李白社,2008.11.17.

あの宙風

仮定や予言をふりまく思想は迷信の上に成り立っている。世の中はずぅっと進歩するという楽観主義やそれと同等の次元の思想にとりつかれ打つ手は全て無効という絶望感とは、もうそろそろお別れすべきだと思う。そこにあるのは従順な精神ではなくただの権威主義であり、自己の存在に責任を持たない「な~んにも考えていない」人間がそこにいるだけなのだ。彼らはひとりで立っていられないので、多くの者達の不安をかきたて自分達と同じ罪に加担するよう扇動し、生贄の羊を彼らの異教の神にささげるだろう。

ホーソーン・アベンゼンが高い城から降りてきたとき、彼の前に上卦が巽Xun下卦が兌Dui、風澤中孚Zhong Fu があった。

巽Xunとして、ある程度の達成と前進がある。どの方向に向かって進んでいても優位にいられる。または君子に会うことで優位になる。従う。
兌Duiは悦ぶ。

澤の上に風が有る。中孚なり。

孚の字は、親鳥が卵(子)を爪でころがしながら暖めている様子のことだ。
つまり内に信がある。

風のように無心に動き、自然の信が内部にあるような共通した価値観によって結ばれたものが支配する。

凡庸な悪がいま名前を変えて次々と登場している。

standard of the self
自分自身に対して忠実であること。
それをしてしまえばそれ以後わたし自身と共にいきていくことができなくなるようなことをしないこと。

君子は以て獄を議り死を緩む。

超越したものがこれにかかわることで告訴された案件について議論を起こし死の苦痛を緩めるだろう。


引用;なぜアーレントが重要なのか,E.ヤング=ブルーエル,みすず書房,2008.9.22.
中國哲學書電子化計劃 易経《中孚》
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=26088&if=gb&en=on

あの餡製

5 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
★☆☆☆☆ 元幕僚長の論文と同じ臭いがする, 2008/12/19
By 桜男22 - レビューをすべて見る

著者が招待作家の集まりで短期間食を共にした植民地作家たちについて語るとき、彼女のことばにこもった蔑視や生理的嫌悪感がとても気になります。
あのようなみじめさにはわたしは耐えられない、と言いたいのでしょうか。
あのような姿に日本の作家がなってはいけない。
だから必要以上にその悲惨さを強調しているのだ、と。

元幕僚長の論文を読んでいるときに感じた根拠のないエリート意識、どうしょうもない「上から目線」と同じものがその文章の裏側に透けて見えるようです。国民を守るといいながら、きっとこいつらは自分が自由に操ることができるその戦車の銃口を一番に自分達に反対する国民に向けるんだろうなぁ。

僕も経験があるのですが、3カ月ほど海外に語学留学して日本に帰ってきたとき、自分でもおもいがけないくらいの国粋主義者になっていました。こんなのじゃ世界の中では通用しない。もっと自分達の文化を大切にしなければいけないとまわりの学生達を扇動していました。この人には帰国子女コンプレックスみたいなのがあるのかもしれません。

以前、この著者の小説を読んだときにその浮世離れした発想に驚いたのですが、逆に言うと足が地についてないだけではないのかとも思いました。
同じバイリンガル作家の多和田 葉子さんや最近芥川賞を受賞された楊逸さんとの違いがはっきりと出ているような気がしました。
元幕僚長と同じように、いまこの時代に出てきて不思議ではない人が書いた本と言っていいでしょう。

BBBBBBBBB PPPPPPPPP

暗い声がつぶやいた。

「あなたの使ってることばは間違っている。あなたは知らないだろうけど、彼女は帰国子女そのものだから帰国子女にコンプレックスを持つ理由がない」

朝一番の電話に出るのはイヤだ。このところ、こういう電話ばかりかかってくる。
桜男21であるコバヤシマサオは溜息をつきかけて息をとめた。聞き覚えのある声だった。
「ええ、そうですね。辞書にもコンプレックスとは劣等感という意味で使われているとも書いてますし、日常でそのことばを使うときはおおかたそういう意味で使われているわけですからあなたがそうおっしゃるのは正しいですよ。僕は無意識のうちに潜んでその人の行動を支配しているようなエネルギーというか、エディプスコンプレックスみたいなものと同じようなことばのつもりで使ったんですけどね。たしかに帰国子女コンプレックスということばはないんですから、誤解を与えた僕のほうが悪いと思いますよ」

湿った二呼吸ほどの間を置いて静かに電話は切れた。

何回か桜男22の名前で、あの書評欄やほかの匿名掲示板に書き込んでいるので、プロバイダからなんらかのやり方でこちらの個人情報を引き出したのかもしれない。元幕僚長についての批判的なことばが相手の気に触ったのか。警告のつもりだったんだろうか。朝起きたときとなりに馬の死体がねそべっていたのでは生活に支障をきたす。まさか燃えるゴミに出せないもんな、とコバヤシマサオは思った。

それとともに、今自分がぺらぺらとしゃべったことばを反芻していて、その自己防衛の強さに気がめいった。

>最大の悪とは、汝が汝であることが悪であるのに、そのことを汝が知らない状態のことなのだ

主観的な信念として「誤解を与えた僕のほうが悪い」という言い方はそれでいいはずだった。正確な表現であるという自信はあった。書評に書いたように、それがいまこの時代についてのコバヤシマサオの評価だ。しかし、それは最大の悪としてある。

彼女の指摘は啓示なのかもしれない。
この時代は悪なのだ。
地上に神の意志を実現することこそ、いま生きているものに課せられた義務なのだ。

僕は信仰の深さを試されているのだ、と出勤前にひざまで積もった道の雪かきをしながらコバヤシマサオは思った。


引用;イスラーム文化,井筒俊彦,岩波書店,1991.6.17.
原因と理由の迷宮,一ノ瀬正樹,勁草書房,2006.5.12.

あの撫鬱

わたしのヘアヌードが流出したって言うけどさぁ、モデルやってたらそんなの誰でもあるよ。カメラマンと信頼関係をむすんだら、わたしのここを撮ってというようなことはもうないんだから。どこかの映画スターみたいに、顔は左側のみでこの角度のものしか認めないとかいうんじゃないわけだし。

いまのこの時期に流出したことがポイントなんだよ。誰が撮った写真かはわかるから、彼女からなにか言ってくるのかな、と思ってたけど音さたないから、よっぽどせっぱつまってやったことなんだと思う。彼女からの提案じゃないな。きっといまでもあの男とつきあってるんだろうから、その方面からだ。いい金になったんだろうな。そうであったことを望む。わたしはいいんだよ。わたしにはわかるよ。どうってことない。

わたしには足と頭はなくてもヘアはあるんだってことがわかっただけでうれしい。慰謝料も、もうもらったあとなんだから、ただのいやがらせでしかないね。ふふふ。ほんとにつまらないやつだった。わかれたのは正解だとつくづくいま思う。

わたしから逃げてばかりいたんだから。

わたしも少し潔癖症の気があるからさぁ、つまらない干渉をしたりするんだけど、そのたびごとにほんとに顔が青ざめて、子どものようにわたしの後を必死になってついてきたんだけど、最後はわたしも気の毒になってしまってわかれることに同意したんだ。

干渉っていっても、彼の虚像にむかってクツをぶつけてるみたいなことだから、彼の実体はすこしも傷ついていないんだよ。キャッチボールのつもりで相手の正面に投げつけたら、そのまま受け止めて投げ返してくれるのかと思ったわたしがバカなんだよね。彼のやってることをちゃんと見ていたら、そんなことはとうてい起こりえないことはわかってたはずなのに、いつもやっちゃうんだよ。

わたしの真実の心の底からの声なのに、それこそなけなしのクツでこれを投げたらもうそれから後は自分ははだしで生きていかなくちゃならなくなる最後の声なのに、彼はニタニタ笑いながら余裕でかわすんだ。そして、暴力反対、DVはダメだよっていうんだよ。あれを暴力っていうんだったら、ゲームみたいに自分が安全なところにいながら、指を差すだけであんなに金儲けしてるのはなんなんだと思うよね。暴力よりひどいんじゃないかと思う。暴力を超えてる。彼は後ろの有能な会計士に乗ってるだけなのかもしれないけど。
60歳こえてまだグラスでふらふらになってるのは、自分がやったことに正面からむきあうつもりがないからなんだ。罪悪感なんてこれっぽっちもない。体は健康だから病気に逃げることもできない。彼はきっと地獄に行くんだろうね。

引用;IRAQ BODY COUNT
http://www.iraqbodycount.org/

あの恐象

あなたがおびえているのは
階段をのぼりつめたところにある
鏡の向こうのあなたの無意識
それが自分のものだという確信が
あなたのいまここにある存在をおびやかしているんでしょ?

どんなに醜い形態をとろうと
そんなのは別に怖くないはず
たしかにバケモノなんだけど
どうってことない
現実でいくらでも同じようなものを看(み)てきたあなたなのだから
あれ以上のものが
そこにあるはずないことを知っている

簡単に結論に跳びつかないで
ほのめかし
あいまいなままでうっちゃっておく
そーゆーやり方は
とてもわたしには親しいものだ
むこーから呼ぶ声がするときまで待っているのは


無意識が育て上げてくれる
草いきれの中から若い声の悲鳴が聞こえても
自分の過去の声のように聞こえてしまう

みな話しちまったことだ、繰り返すことほど退屈なことはない。


まっさらの紙で作られたメビウスの輪が
インクで汚されて
人はいつの間にか自分の鏡像になっている


引用;映画「ミラーズ」公式サイト
http://movies.foxjapan.com/mirrors/
四次元の冒険 第二版,ルディ・ラッカー 工作社 2007.9.10.
今でなければいつ,プリーモ・レーヴィ,朝日新聞社,1992.10.1.

あの安高


あのドタバタ騒ぎのあとオレに関する噂は減っていった。報道されないから(ニュース)価値がなくなる。すると自分がその噂を持っている価値がなくなる。その噂を使う人間が減る。オレについての記憶は世間の人間の頭から消えていく。

一時は月に204件もあったオレについての噂は先月は53件にまでになった。原因がマスコミだけにあるわけではないことは、無名の人間についての同じような記事の総数が変らないことからもわかる。別口の記事が書かれるだけだ。オレの場合は手ごろなキャラだからもてはやされただけなのだ。

たしかに、手近にオレのような扱いやすいキャラがいなければ噂はたたない。あのような記事の総数も減っていくのかもしれない。それに自分こそ正義なのだと考えているやつが自分の理想の社会を現実のものにするためにオレの噂を悪用しないとは限らない。ないほうがいいのだ。

その反対に、オレがあの緑色の声をあげ続けることで、何重にも折りたたまれて隠されていたウソの折り目が次々と開かれていって、元の状態に戻され、あばかれることが可能になるのかもしれない、と思う時もある。しかしその犠牲は大きすぎる。


きのう、ひさしぶりに会社のエレベーターの中で明子と会った。
2人だけだったので、明子はそっぽをむいていた。

オレは冗談を言おうとして

「男はみんなウソつきだ、と男が言う場合、それは自己言及のパラドックスになるけれど、男はみんなウソつきだ、と女が言う場合、それは自己言及のパラドックスにならない。この命題はホントかウソか?」と聞いた。

明子はこういうクイズが好きなのだ。

「まさか、その男と女が特別な仲だったらその命題はなりたたない、といいたいんじゃないでしょうね?」

みんなが仲良くなれば、自然にオレについての噂も無くなるのだと単純に思う。

引用;人間的自由の条件,竹田青嗣,講談社,2004.12.7.
SEPTEMBER 1, 1939 W.H. Auden
http://www.poemdujour.com/Sept1.1939.html
Rumors About Me, Yasutaka Tsutsui, Translated by Andrew Driver,Zoetrope All-Story,Summer2008,Vol.12, No.2
http://www.all-story.com/issues.cgi?action=show_story&story_id=386

あの輝度

彼は自己の自由と主体性を決して失わない。
誘惑されその誘惑に身を委(まか)せることは自分の自由を失うことになるので、めったに他からの快楽への誘いの声を聞くことはない。
なにかに依存することを厳しく退ける。
モノであれ、人物であれ、何かによって自分の自由が束縛されることを嫌う。

彼は誘惑する。
他人に物理的な力を与え、コントロールする。

誘って共犯者を増やす。
それが彼の社会化だ。
彼の生きている現実の社会はそれを許さず、彼は糾弾され、捕獲された。

彼は自分に対する懲罰も他人事のように観察した。
そこから快感を得ることもできた。
肉体が閉じ込められても、彼の精神は空を自由にはばたいていた。

その間中、彼の後ろにはいつも支え手が存在していた。

彼が罪を問われ、遠くはなれた場所に監禁されてから、彼の支え手は具体的なモノによって裏づけすることはできなかったので、その支えは両者間に通う信頼感が基礎となっていた。

彼の問題行動を自分の(愛の)力で変えることが自分の幸せになると思っている支え手を必要としなくなったとき、彼が何にも依存せず、相互の関係から自然に導き出されるやり方で双方の問題を解決できる能力を持ったとき、彼は本当に自由になれるのだろう。
そして、その時、彼を含まない世界から、彼は魅力的に見えるのかもしれない。

実際はそのようには進まず、彼を幽閉した彼と同じ性向の持ち主は彼から強制的にその支え手を引き離したのだった。

彼は絶望のうちに死んだ。
彼が自分の小さな部屋に残した何百枚にも渡る手稿は焼かれ、灰になり、空中に消えた。



引用;サド伝,遠藤周作文学全集第11巻,新潮社,2000.3.10.
資本主義と自由,ミルトン・フリードマン,村井章子訳,日経BP社,2008.4.21.

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