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あの唖意


 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。



地上はるか上空に浮かぶ心が呼び寄せるものの気配はときどき乱れる。部屋全体の空間がねじれきしんでゆれる。先夜から発熱が続き頭がはっきりしない。古くさく荒れた家のかびの臭いがどこかから流れてくる。熱はあの逢瀬のあと、この部屋にもどったときに始まった。

あの若い男は言った。
 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」

わたしは、人によって態度が自然に変わってしまうことがないとよく言われる。裏表がない、気が置けない人だから、とても楽につきあえるとよく言われる。面倒見がいい、姉御肌だ。困ってる人、逆境に落ちた人を気遣って真剣に声をかけてくれる人。権威に対して真正面から言葉を返せる人。自分にウソをつかない人。それは自分がこれ以上下がない最低の地面の上をどろだらけになって手のひらと膝を使って這いずりまわり、もがいていた時期があったからだ。

わたしはどこにいるのだろう。もう一度会いたい。
彼がわたしの名前を知らないというのは本名があることを知っているからかもしれない。本名を名乗っても誰も知らないが、彼にはその世界でのわたしが通じるのかもしれない。あの世界のわたしにもう一度会いたい。会えるだろうか。

部屋が再び大きくゆれ、わたしの心がそれと共振する。灯が消える。
おどろいて笑い声がでる。
手をたたくとがらんとした部屋に気味悪く反響する。

暗い中を手探りで進んでいくと、熱のためか汗が異常にふきでて床にぽたぽたと落ちる音がする。
リビングのソファの前にうすぼんやりと人の影がみえる。うつぶせで長く体をのばした女性が床に倒れている。

近づいて抱き起こそうとしたが、別の世界のものだからなのか、見えているのに感触がない。
それはわたしであり、わたしがずっと嫉妬していた女。

わたしは自由になったのだろうか。


引用;渋谷栄一,源氏物語の世界,夕顔
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text04.html#in44
角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)
http://www.genji.co.jp/yosano/yy04.html
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