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あの気積

「死刑制度」を「戦争」のアナロジーで語るのはある程度意味がある。
両方とも共同幻想の場でおこなわれることだから、自己幻想の言葉では解体できない。
「殺すな!」「イヤだからイヤ」。その言葉は届かない。

「国民の80%以上がその制度に賛成している」と言う人の心理と「挙国一致」「一億一心」と言っていた人の心理は良く似ている。かんたんに外からの圧力でひっくり返れば何事も無かったかのように、「一億総ざんげ」になるんだろう。「諸外国で死刑制度の残っているのはアメリカの一部と日本だけです」ということばと、うまい具合に対になっている。そんなことばはどちらも無効だ。やめたほうがいい。

「死刑制度」も「戦争」も自分とは関係ないところでは起こっていない。むしろ「死刑制度」反対や「戦争」反対を言うことで無意識に抑圧している分だけ罪が深い。
もちろん、サインしてうちに帰って居間の観音様に手を合わせている人も、地獄に落ちることは確実だ。黙ってその罪を悔い、おとなしく自分の未来に科されるであろう罰におののいていればまだ救われたのかもしれない。

共同幻想からの命令は個人の身体を動かす。その社会に棲むかぎり逆らえない。古くなった教えはその権力を裏から支えている。
自分の内部から湧き出てくる、人間に真の愛と自由をもたらすことばに気がつきなさい、信じなさいとわたしたちを導いてくださるお方は言う。

「なんぢら徴(しるし)と不思議とを見ずば、信ぜじ」

徴や不思議を期待しているかぎり、「死刑制度」も「戦争」もなくならない。
自己幻想の言葉では解体できない。

戦争といえば、オリバー・ストーンのブッシュ大統領伝記映画『W.』の紹介記事を読んでいて、村上春樹さんの『海辺のカフカ』がこれと同じ構造をしていることに気がついた。おお、モサドも出てくるぞ。

受賞して招待された講演会では、ぜひ次のようなことを言ってもらいたいものだ。

ガザへの攻撃はヒロシマ・ナガサキと同じです。うちの前航空自衛隊幕僚長が外国特派員協会の記者会見で

「1945年当時の司令官だったとして、米国に対して原子爆弾を使う能力があった場合、どうするか」

という質問を受けたとき答えは

「早期に戦争を終結するために、若い帝国軍兵士が多数死亡する恐れがあったのでたぶん使用するでしょう」

と言えばおもしろかったんですけどね。

きつい冗談は好きだからそんなくらい言ってもいいんだけど。通じると思うんだけどなぁ、賞をくれたくらいだから。あなたたちの立場も十分理解できるんですよという小説なんだから。
でも、招待されて3年後に急性骨髄性白血病なんかで死なないように、口に入れるものには気をつけてくださいね。



引用;福音の力,ホアン・マシア,あかし書房,1984.9.28.
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