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あの唱道

夜明け前に赤信号でぼんやりと立っていると、その隣を障害物にぶつかるようにして次々と散歩している中老年が追い越していく。彼らは赤信号でも自己責任で横断している。立派なものだ。われらの国の経済的発展を支えた人たちが馬鹿正直なものを置いてけぼりに遠くに消えていく。

車は一台も通過しない。西に伸びる2車線の先にビルの明かりに混じって、6個の青信号のランプがほぼ同じ高さで並んでいる。突然そのうちの4個の色がオレンジに変わり、2個がそれに続く。
不思議なタイミングで目の前でも車に向けた信号の色が変わっていく。歩道の前で待っているものへの信号がGOになる。信号の色が歩行者の安全を保障しても、左右を注意深く確認して前に進む。

なにも法律を守るために赤信号に従っていたわけではなかった。むしろルールは自分が行動した後にいつもそれに応じて知らないうちに変化し記録されていた。

ある隣人が自己を解放するためのアイデアに固執し実行を企てる。無謀なものであり、一過性のものであるが、同じようなわけのわからない理由による事件が連続する。その鬱屈した感情だけが次のものへと継承されている。事件の関係者は同じ気分を共有するものに限られ、その世界は閉じている。同じ抑圧されたもの同士で盗みあい、ひき裂きあい、殺しあう。彼らを抑圧する者へとは届かない。

今は無きフランスの思想家に言わせれば、こうだ。個人に対して刑罰を科されるリスクをもたらすような行動のすべてを犯罪と呼ぶのであれば、交通違反と計画的犯罪とのあいだにはいかなる差異もなくなる。犯罪者は完全にどこにでもいる人であってよく、だれであっても不思議ではなくなる。刑罰システムは経済的損失のリスクを生産するような人間を囲い込むような環境を作っていく。

非協力でいようとしてもダメだ。あなたは参加を強制される。石打の刑が公開されるだろう。加害者は固定され、被害者の家族が一番に石を投げるだろう。彼らに憎悪を与えたものが、その罪を償っている。憎悪は伝染し、次々に石を投げるものが増えていく。彼らの憎悪は抑圧するものから由来したものであったが、石を投げることによって解消される。
自己が解放され、独立するには注意深く、目の前のルールから解放され独立することが必要なのだろう。
目の前の信号が青信号になっても、道路の左右からの危険を確認することが必要なように。

引用;民族解放戦争における北アフリカ人の犯罪衝動性(地に呪われたる者),フランツファノン,鈴木道彦浦野衣子訳,ちくま哲学の森3悪の哲学,筑摩書房,1990.3.30.
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