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あの弄仁

作家は耐えられなくなったので、つい口を出してしまった。
目の前の男は、自分を黙って受け入れてくれる、自分のことばは素直に彼に届く、そういうサインを発信していた。作家は男の表情にさそわれるように心の中から跳びだそうとしていることばを発した。黙っていられなくなったのだ。

「まさに、いまさら何が言えるというんだ?わたしはきみが何を言うのかは十分知っている。それ以上に、きみにはすでに昔のあの日々のうちに言ってしまったことについて何か一つでも言い足すような権利はないんだ、もうきみにはこの時代のわたしたちのやっかいごとに首を突っこむようなことはできないんだ」

「私有財産制がすべての差別を不可能にした。貨幣の前ではすべてのものは平等だ。近代以前の社会での階層化した所有権はこの時代では解体されている。個人は自由になったんだ」

「人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、神の口より出づる凡ての言葉による。消費者は神だと言った歌手がいたが、ほんとうにそのとおりだ。野生の動物のように自分の肉体が生き延びるための要求ではなく、それぞれの脳(神)が受信したメッセージ(言葉)によって掻きたてられた欲望が声となって、商品を求める。それによって生きているのがわたしたちの世界だ」

「わたしたちの理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。自分が大きな利益を得ることには期待しないが、小さな損害が自分の身にふりかかることを最もおそれている」
「わたしたちは提供されたものを消化することも、それを身にすることもできない。そのままの形で所有して満足している。だから、飽きてしまった古いものは廃棄され、つぎつぎと新しいものを与えてもらわなければ生きていけない」

作家は相手の沈黙が苦しかった。力が底が抜けたように漏れていった。男はしみ入るように、熱心に作家の話を聞いているばかりだった。

不意に男は無言のまま作家に近づいて、10ドル札を手渡した。それが回答だった。

作家の心は傷ついた。



引用;Ф.М. Достоевский ,БРАТЬЯ КАРАМАЗОВЫ,Книга пятая. Pro и contra. V. Великий инквизитор
http://www.magister.msk.ru/library/dostoevs/karama05.htm
Feodor Dostoevsky,The Brothers Karamazov,Translated by Constance Garrett,
Book V. Pro and Contra Chapter 5. The Grand Inquisitor
http://gutenberg.net.au/ebooks07/0700061h.html#ev
カラマゾフの兄弟  ドストエーフスキイ / 中山省三郎訳 (角川文庫・上巻)
第五編 Pro et contra 五 大審問官 《上》五 大審問官 《下》
http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro/pro3.html
http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro/pro4.html
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